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​「移動演劇桜隊」について

苦楽座記念写真.jpeg

国策のために作られた移動演劇隊として広島に滞在していた「移動演劇桜隊」は、

​1945年8月6日、爆心地から750mの宿舎で原爆に遭う

新劇界の団十郎と呼ばれた名優・丸山定夫、

元宝塚スターで映画「無法松の一生」のヒロインを演じた園井恵子をはじめとする

桜隊9名全員の命が奪われた

1945年1月神奈川地方移動公演、富士フィルム工場上演記念写真(当時の名称は苦楽座移動隊)

「移動演劇桜隊」とは第二次世界大戦中、国民の戦意高揚のため、内閣情報局によって作られた移動劇団のひとつである。
昭和20年3月、5月の東京大空襲のあと、首都圏での演劇活動は不可能となり、
広島市の中国支部への疎開が決定した。(総勢14名)

劇団が「移動演劇桜隊」と名乗ったのは、昭和20年春頃から8月6日までのごくわずかな期間に過ぎない(これより以前は「苦楽座移動隊」と名乗っていた)。
俳優たちの出身母体はバラバラで、新劇出身者、元宝塚、日活などの映画会社からも東京大空襲で仕事を失くした俳優らが活路を求め参加。
三好十郎の「獅子」と戦争礼賛の演目2本。
他に「無法松の一生」などもレパートリーとして持っていた。

6月22日、広島市堀川町九十九番地の移動演劇連盟中国支部に着任。
乃木年雄(本名・山村兼蔵)を隊長とする「珊瑚隊」という劇団も同じ寮を拠点としていた。
着任早々山口県への移動演劇が空襲の影響で中止となる。

7月の移動演劇開始まで、桜隊と珊瑚隊は、防空壕作りなどの勤労奉仕などをしていた。

昭和20年7月4日の夜、丸山定夫ら数名はNHK広島放送局の生番組で朗読劇を披露。
その足で広島駅に向かった一行は、深夜の電車に乗り、鳥取、島根への移動演劇を開始した。


丸山定夫はこのときから自転車事故が遠因とみられる肋膜炎(胸膜炎)を患い、高熱を発していた。八田元夫らが移動演劇中止を提案するも、丸山は頑としてはねつけ、移動演劇を続行した。

昭和20年7月6日の公演を皮切りに、島根県と鳥取県の8カ所で10回の公演をした桜隊だったが、丸山定夫の肋膜炎悪化のため、移動演劇を中断。
7月16日に広島に帰還し、そのまま寮に待機となった。
珊瑚隊が桜隊の代わりに、その後の巡演を担ぐことになる。

7月の待機中に俳優、裏方など数名の脱退などが相次ぐ。池田生二は家族が疎開する沼津が空襲に遭い、離脱。槇村浩吉は俳優の補充のため、7月25日、妻の小室喜代に留守を任せ単身上京した。


7月末、珊瑚隊が座員の縁故で、宮島の存光寺の庫裏を借り受け、広島中心部からの疎開が可能になるが、桜隊は諸事情により辞退。珊瑚隊のみ存光寺に移動し、桜隊は原爆投下の運命の朝を迎えてしまう。

8月6日朝、宿舎に残っていた桜隊の9名が原爆に被爆。
9人は原爆の衝撃で倒壊した寮の下敷きになる。
島木つや子笠絅子森下彰子羽原京子小室喜代の5名は即死。

後日、焼け跡から遺骨が発見された。
瓦礫から這い出し、九死に一生を得た丸山定夫園井恵子高山象三仲みどりの4名だったが、既に致死量の放射能を浴びていた。

<丸山定夫の死まで>

「新劇の団十郎」こと、丸山定夫は倒壊した寮の瓦礫から這い出し、避難の最中に軍に救助される。
鯛尾島を経て小屋浦国民小学校に収容されているところを槙村浩吉と八田元夫に発見され、宮島の存光寺に移送される。
ところがすぐに原爆症の症状が出始め、高熱、歯茎からの出血、脱毛、激しいしゃっくりなどに悩まさる。
「熱い~熱い~」と言いながら、寺の裏手にある井戸端で水をかぶっていた。
彼は敗戦の翌日の8月16日夜、自由な演劇活動ができる時代を見ることなく亡くなった。44歳だった。
珊瑚隊の乃木手記により、死亡日が8月15日ではないかとの説もあったが、その後、「丸山16日死す」のメモが発見され、乃木本人が手記を訂正している。
そのため、丸山定夫の死亡日は8月16日で確定である。

<園井恵子と高山象三の死まで>

宝塚出身で、映画「無法松の一生」でも有名になった園井恵子は32歳の自分の誕生日に被爆した。
俳優、薄田研二の息子であり、若き演出家の高山象三と、抱き合うようにして猛火の広島から逃がれ、比治山にて一夜を明かす。その後、海田市の民家に泊めてもらい汽車賃を借りる。8月8日に復旧した山陽本線に乗り、神戸の支援者宅まで逃げ延びた。
しかし、早くから高山が原爆症を発症。園井も脱毛が始まり、体調を崩し始める。
共に玉音放送を聞いた後、原爆症がさらに悪化。

8月20日、21日と相次いで、苦悶のうちに亡くなった。

<仲みどりの死まで>

原爆投下後、猛火から逃れ京橋川の中に避難していたところを船舶部隊によって救助され、宇品凱旋館に収容される。
しかし、治療もないまま2晩を過ごし、復旧した電車(園井、高山も同じ電車にいた)に飛び乗り
東京までたどり着いた仲みどりだったが、原爆症を発症。東大病院に入院。
放射線医学の専門家、都築博士の手厚い治療を受けるも、8月24日に36歳で亡くなる。
仲は人類史上初の原爆症患者として、肺と骨髄の一部が、現在でも東大病院に保管されている。 
仲みどりの死によって、桜隊は全滅となった。
しかし、仲は図らずも自らの体を原爆医学に献体、貢献したともいえる。

隊員9名のプロフィール
​隊員9名のプロフィール
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​丸山定夫 まるや さだお

明治34年愛媛県に生まれる。

(享年44歳)

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園井恵子 そのい けいこ

大正2年盛岡市で生まれる。

(享年32歳)

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森下彰子 もりした あやこ

大正11年東京四谷で生まれる。(享年23歳)

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​高山象三 たかやま しょうぞう

大正13年高山徳右衛門(芸名​:薄田研二)の長男として生まれる。​(享年21歳)

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​小室喜代 こむろ きよ

大正4年福島県で生まれる。

(享年30歳)

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​仲みどり なか みどり

明治42年東京日本橋で

生まれる。(享年36歳)

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​島木つや子 しまき つやこ

大正12年福岡県で生まれる。

(享年22歳)

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​羽原京子 はばら​ きょうこ

大正12年広島県福山市で

生まれる。(享年22歳)

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笠 絅子 りゅう けいこ

明治37年福岡県で生まれる。

(享年41歳)

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